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2011年4月20日水曜日

南三陸の報告その②

延々と瓦礫
瓦礫
瓦礫
「これでも道だけは自衛隊の方が作ってくれたから」Hお父さん。
「これが病院・これが結婚式場・これが郵便局・・・・」
軽トラックの助手席でお父さんの話を聞く。
「あっと気がついたら津波だったよ。高いビルって言っても田舎だからよ、三階まで来るとは誰も思わなかったから取り残された町民が山のように居たんだよ。病院も病室の中は津波に持っていかれた。仙台銀行の建物は外壁だけで何も残ってない。・・・・・・。あの小高い山の上には寺があってね、今は墓だけしか残ってないね。鉄道の線路には船が乗ってるだろ?四階にのってるあの車も津波が乗せていったんだよ。海岸から山の方まで津波は襲ってね。この広い場所も集落があった。あそこもここも集落だった。」
一面の瓦礫は集落の後。船や車やなんやかんや・・・・・。「凄い・こわ・・・」こんお連続。
情けない話「言葉を失うのだ」
青い海と緑豊かな山々。素敵な場所だったに違いない町。
県立海の研修所も避難所になっていて、仮設住宅も作られてきていた。入り口には炊き出し(自衛隊)と地元のお母さんが食事を作っていた。キャッチボールする高校生や遊ぶ子供。一見、避難所と言うことを忘れてしまうくらいに「穏やか」な雰囲気だ。ここで、大正大学の学生と出会う。大正大学は友達の方の勤め先であり、身近に感じる大学。学生は数日後とに交代で来ているらしい。
非難所のおばちゃんと話が出来た
TA「柏では疎開支援の会があり、一時的にでも疎開をしませんか?」
おばちゃん1「行かないよ、ありがたいけどね、ここで仲間が死んだし、今は仮設を待ってるからさ」
おばちゃん2「避難民のおばちゃんはね、全国から来る援助物資で太ったよ。笑。ありがとうね。本当にありがとう、でもここは離れないよ。じいちゃんやばあちゃんも年でしょ?動かせられないよ。」
おばちゃん3「おにいちゃんは?ボランティア?え?違うの?何しに来たの?え?救援物資運んだの?ありがとうね、次はさ、車・原チャリ・家を持ってきて」笑。
明るい・・・本当に明るい
「死んじゃったのよね・・・家の息子。もう泣くのは飽きたわ。おばちゃん毎日ご飯食べ。友達と話して、寝て、食べて。だからさ、ここは離れないよ。また来るのか?タイ料理の人?なら次は作ってよ。おばちゃん食べたいね・・・・」
よし「来るわ」
でた、TAの悪い癖。すぐに約束して自分の時間を無くす野郎・・・でた。
でも、ここへは定期的に来る。いつか綺麗な町を迎えたときに「綺麗な町ですね」って言うためにね。ブログを見ている人もいつか来ませんか?悲惨な町が綺麗になったら、一緒に来ましょう
で、TAの南三陸町の一日は終わり。
帰りは完全に居眠り運転よ。生きて仙台の部屋へ戻り爆睡。
柏の応援団の皆。ありがとう。
これからも続けましょう。
俺も私も行きたい。って有志は歓迎です。但し、車は自分で用意することw
※ありがとうの言葉は「皆さんの為に用意されてます。今回の被災で沢山のありがとう」をもらいました。皆さんに拍手wwww

3 件のコメント:

  1. たあちゃん、おつかれさまでした!
    被災地の様子もよ~く(涙)みえてきました。

    タイ料理食べたらみんな元気になりますよ!

    でもね、居眠り運転はやめて!!

    運転手募集しま~~す!!ね!

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  2. 本当にお疲れ様でした。
    ご報告一通り読みました。言葉が見つかりません…
    でも、おばちゃん達の明るい言葉に救われました。
    私は今すぐに東北へ行ける状況ではありませんが、
    これからも自分が出来る限りの支援を続けていきたいと
    思います。
    また、今週も美味しいタイ料理ごちそうになりに
    行きますね(たあちゃんさんは居ないけど(/_;))!

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  3. SORA姉さん>運転手か~そんな柄じゃないよ。たぶん俺が運転してると思うよ。
    UMICHANG>感謝です。柏のThaChangも計画停電で困ってるのが現状です。応援お願いしますね。

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